大和時代の後半から奈良時代の初めにかけて(7世紀後半から8世紀初頭)、但馬(たじまの)国造(くにつくり)に任ぜられた表(ひょう)米(まい)日下(くさか)君(のきみ)(久世田の俵米神社、竹田城山麓の表米神社の祭神)は朝来山(立雲峡)のふもとに竹田の宮を造営して居住地と定めたが、朝来山(立雲峡)には、すでにそのころから山桜が美しい姿を見せていたといわれ、全山には薬草もしげり、天然の恵みの地であった。日下(くさか)君(のきみ)は、この自然の恩沢(おんたく)を非常によろこび、領民の安泰を願って、朝来山(立雲峡)の中腹を拓(ひら)いて愛宕(あたご)神社(祭神は雷神で鎮火の守護神)奉斎した。朝来山(立雲峡)はそれ故に一名「あたご山」ともいわれる。また奈良薬師寺より薬師如来を勧進(かんじん)して荘厳(しょうごん)な堂宇(どうう)を建立、薬草の栽培を奨励し、農業の改良発展につとめるなど、その善政は広く領内一円に及んだという。
養老元年(717年)に朝来山(立雲峡)薬師堂の渓谷からコンコンと温泉が湧き出た。山には脱衣庵、休憩所が設けられ、更には治療宿舎が軒をならべて、遠近よりきたる湯治客は後をたたなかった。ところが、天安元年(857年)8月、天地をゆるがすような大地震が起き、薬師堂は崩れ落ちて、昨日まで沸き出ていた温泉がピタリと止まってしまい、湯気すら見えなくなってしまった。
大阪竹田会一行が、さくら満開の昭和7年4月17日に、朝来山に訪れたその中の松本卯一郎氏が、これが世にもまれな風景であると「これを放置しておく手はない、これを開けば、きっと一大景勝地が世にでることまちがいなし、なんとか早く開発」と提唱するとともに翌日から自費を投じて毎日30人40人と人夫を送り込み開拓した。昭和7年5月2日付、大阪朝日新聞全関西版に【「ひょっくり現れた━但馬の名勝 朝来山の奇渓 七・八尺の熊笹に埋もれたその昔の「但馬吉野」】と掲載された。 その松本卯一郎氏がかねてから尊敬し師事している頭山満翁を訪ねて、名勝地の命名を依頼した。頭山翁は、自分の雅号の「立雲」をとって「立雲峡」と名付けた。この頭山翁、当時、右翼の大御所として政界に隠然たる勢力をもっていた人物である。
2024年 立雲峡桜まつりの期間は、2024年3月17日から4月7日までです。 山陰随一の桜の名所として但馬吉野とも呼ばれる。また、向山頂上にある竹田城跡を眺めることが出来る、絶景ポイントになっています。
この度、登山道に手すり設置工事を行うため、竜神の滝の上側から第一展望台に行くまでの区間を全面通行止めとなります。 期間:令和5年5月8日(月)から6月末日まで お客様にはご迷惑をお掛けしますが、ご了承ください。